現在のページ:TOPページ > 医療ジャーナリスト丸山寛之氏が綴る辛口コラム「それ、ウソです。」
「漢方と聞けば、たとえ西洋医学の医者でなくとも、なんとなく首をひねるような気になるものである。─略─江戸末期に起こった、犁啜は請茘瓩粘訴が西洋医学に敗れたという史実もある」(渡辺淳一対談集『渡辺淳一クリニック』=文春文庫)。
連載の皮切りだから、大物をマナイタの上にのせる。1984年発行の同書中の、漢方医・藤平健先生との対談記事の前文で、かつては優秀な整形外科医だった作家は、こう書いている。だが、これは渡辺さんの思い違いだろう。そのような「史実」は日本医学史のどこをさがしても存在しない。「江戸末期」ではなく、明治になってからなら似たようなことはあった。
明治11年、東京・神田の官立脚気病院で、西洋医学の医者と漢方の医者が、二つの病棟に分かれて、脚気患者の診療に当たり、治療成績を争った。世間ではそれを「漢洋脚気相撲」と評判し、錦絵も売り出された。そしてこの相撲、漢方側が完勝、西洋側は完敗したのである。渡辺説は差し違えなのだ。
当時はまだ脚気の原因がビタミンB1の欠乏症とはわかってなく、西洋医学では治療法の研究も遅れていた。脚気は、白米を常食する東洋人には多発しても、パン食の西洋人にはまれな病気だったからだ。
一方、漢方の医者は、経験的に麦めしや小豆めしが脚気に効くことを知っていた。この脚気相撲でも、漢方側は、患者に麦めしと「赤小豆鯉魚湯(せきしょうずりぎょとう)」とい小豆と鯉のスープのようなものを与える食事療法をおこなって治療成績を上げた。が、西洋側の成績はさっぱりふるわなかった。
この漢洋脚気相撲から数年後、こんどは陸軍と海軍との間に脚気をめぐる論争が起こった。明治17年、海軍の軍医大監、高木兼寛(慈恵医大の創設者)は、軍艦の乗組員に脚気が多発する原因は栄養障害と考え、兵食を米麦混食に変えた。以後、海軍では脚気患者はみるみる減った。
一方、陸軍は軍医総監、森林太郎(鴎外)の裁量によって米食に固執した。そのため明治27~28年の日清戦争、37~38年の日露戦争では、前線将兵の4人に1人が脚気を患い、「脚気は敵弾よりも恐るべし」といわれた。
脚気が、ビタミンB1の欠乏症とわかったのは、1912年(大正1年)以後のことである